第5節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の有効性

 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的正当性の議論とは別の次元で、研究成果の存在そのものが大きな社会的役割を有している。本説では、その社会的役割、すなわち我々人類に対して発揮する様々な有効性について考察してみよう。

 まず、超常現象を批判的に検討する安斎育郎教授は、「神は実在する」という命題は科学的命題であり事実に照らして調べるべきだが、「神を信じることは素晴らしい」という命題は価値的命題であるため各人の自由であり、科学がとやかく言う問題ではないと述べたうえで、次のような例をあげる。

 「死の危機に直面している人が、丹波哲朗さんの『大霊界』を読んで、『人間死んでも素晴らしい世界が待っているんだ』と信じて心安らかに使途につくのを見て、『非科学的な死に方だ』などというのは余計なお節介というものでしょう。『死後の世界』が実在するかどうかなどということに頓着せず、それをひたすら信じて心豊かに生きるのも、ひとつの価値観の選択であって、当人の自由です。」

 このように、科学的論争はさておき、少なくとも、「死後の生命を信じることが心豊かな生活につながる」という点については、安斎教授もその有効性を認めていることがわかる。同様に、哲学者のゲイリー・ドーア博士は、次のように主張する。

 「真実であることを立証する充分な証拠がない限り、決して何も信じるべきではないという原則(理性原則)は、現代の科学者や哲学者の間では極端なまでに広まっている。それは、信念にかかわる事柄に対して『情におぼれない現実的な』姿勢を保っていることを示す証明書であり、科学的思想家の誇りなのだ。また実際、科学者や学者のような人があまり物事を軽信しないよう心がけるのは、明らかによいことではある。しかし、理性原則はいかなる種類の信念に対しても有効なのだろうか。何かを信じる場合、人は常に十分な証拠が揃うのを待たなければならないのだろうか。どうも、そうではないようだ。」

 ドーア博士は、理性原則が有効でない例として、「妻・夫あるいは恋人は、自分を裏切っていない」という信念をあげる。もしも「十分な証拠がない」としてこの信念を拒否するならば、2人の関係はおそらく長続きしない。この種の問題では、十分な証拠を求めること自体が、不必要な緊張、不快感、人間関係の破壊をもたらしてしまうため、それを科学的基準によって証明するよりは、たとえ証拠が不十分でも信じて妥協する方が得策なのである。この事例が示しているのは、人が何を信じるべきか否かを決める際に、必ずしも常にその証拠を考える必要はなく、「信じることがもたらす結果の有効性」を考慮した方が望ましい場合もあるということである。むしろ、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果をきちんと読みもしないで、先入観から「否定のための否定」をする論者たちの方が、よほど非科学的であり、社会に望ましくない影響を与えている。「スプーン曲げ」の超能力を否定することと、「死後の生命」を否定することとでは、有する意味が全く異なるのである。ドーア博士は、次のように結論づける。

 「たとえ死後の生命の証拠が、科学的基準に照らし合わせて決定的なものではなかったとしても、その存在を自分の人生で『検証する』という目的を持って信じることを選びとるならば、その姿勢は理性的なものである。また、たとえ否定的な証拠や自分で納得のいかない部分があったとしても、熟考した末の決心でその信念を支持することは、『ある理論の妥当性を研究室で検証中であるにもかかわらずその理論を支持している科学者』が正当であるのと同じように、正当なことである。」

 すなわち、超常現象に懐疑的である安斎教授も、「死後の生命」はすでに超常現象ではなく科学的事実だと認めるドーア博士も、ひとつの点において見解が一致していることがわかる。それは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識が、その真偽の議論とは別に、それを信じる人々に対して望ましい心理的影響を与えるということである。その影響が、その人の人生観や生きがい感に与える影響であることは、いうまでもない。

 それでは、専門家が見る生きがい感とは、どのようなものなのだろうか。まず、上智大学の小林司教授(医学博士)は、「生きがい」の意味について次のように解釈する。

 「どうやら、自分が生きている価値や意味があるという感じや、自分が必要とされているという感じがあるときに、人は生きがい感を感じるものらしい。必要とされているということは、自分が生きていることに対する責任感であり、人生において他ならぬ自分が果たすべき役割があるということを自覚することである。生きがい感は生存充実感であって、感情の起伏や体験の変化を含み、生命を前進させるもの、つまり喜び、勇気、希望などによって、自分の生活内容が豊かに充実しているという感じなのである。」

 また、兵庫大学の上田吉一教授(教育学博士)は、「生きがい」を持つための条件として、「人生に希望を持っていること」「自らの役割の自覚があること」「明快な価値観に支えられていること」「アイデンティティを失わないこと」「根性を持って障害に立ち向かうこと」の5つをあげている。

 この両者が語る「生きがい」感からは、要するに「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」といった問題意識が明確であること、そして、できれば自分なりの回答を持っていることの必要性が訴えられている。逆に言えば、自分のことに興味がなかったり、自分が生きている必要性を感じなかったり、何も目的意識がなく毎日をただ生物として漫然と生きているだけであるような場合には、「生きがいのない人生」ということになるであろう。

 それでは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識を持つことが、我々に生きがいを与えてくれたり、生きることの意味を見直させてくれるという考えは、本当に正しいのだろうか。そうした主張は、考え方としては理解できるが、実際に検証することができるのだろうか。このような疑問に答えてくれる事例を、いくつか紹介しよう。

 まず、コネティカット大学医学部精神科のブルース・グレイソン教授は、「臨死体験をした自殺未遂者たちは、二度と自殺を企てない」という命題を検証した。「死後の世界」があるのならば、むしろこの世に絶望したものは、「一刻も早く自らの肉体を去り、楽しいあの世へと移行したい」と考えても不思議はない。この点は、「死後の生命」や「生まれ変わり」の研究成果を広く普及させるにあたって、最も配慮すべき問題点である。これらの知識を知らせたおかげで、かえって気楽に自殺する者が増えてしまったり、自殺にまで至らなくても、「どうせ何度でも生まれ変わるんだから、身体を粗末に扱って早死にしても構わない」などと考える者が増加したのでは本末転倒だからである。

 しかし、結果は極めて望ましいものであり、臨死体験をした自殺未遂者は、二度と自殺を企てようとはしないことがわかった。その理由について、グレイソン教授は、「死が終わりではない」ということを知った結果、あるいは、「何らかの理由で自分は死後の世界から送り出されたのだ」と信じることからくる効果であると分析し、この効果によって、人は自分自身をより許容するようになり、「自殺が問題からの逃げ道にはならないのだ」という事実を知るようになると指摘する。そのうえで、グレイソン教授は、次のように強調している。

 「このような研究を続けていくことにより、我々はやがて、高次の意識レベルへの人類進化という大きな問題について、新しい洞察を得ることができるようになるだろう。臨死体験が重要なのは、死との関連においてではなく、生との関連においてなのである。」

 ちなみに、ポリツィアンとエリソンがアメリカで行った心理学的調査によると、信仰心のある人は、そうでない人に比べて、孤独感に陥ることがないという。中でも孤独感に対して最大の相関にあるのは、「自分の人生にはある種の目的が存在していると思う」か、逆に「自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのかがわからない」かという実存的幸福の尺度であった。すなわち、「自分の人生にはある種の目的がある」と思うことができれば、我々は孤独感を持たないで生きていくことができるのである。

 また、コムストックとパトリッジの調査によると、信仰心は、幸福感のみならず、現実の健康にも良い効果を及ぼすことがわかっている。信仰心のある人ほど、心臓病や肺病、肝硬変やガンに冒される率が、明らかに低かったという。その理由としては、信仰心のある人々は酒や煙草を自重し性の乱れもないこと、そして信仰心が心の平安を生み出し、それが血圧の低下を可能にすることなどがあげられている。

 もちろん、信仰心を持つことと、「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることは、全く同じではない。信仰心とは、通常、特定の宗教の神あるいは教祖や教義に対するものであり、必ずしも科学的な知識に裏づけられている必要はないからである。しかし、宗教としての「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることも、科学的観点からこれらの仮説を認めることも、結果においては同じである。それは、上述の事例からもわかるように、これらを信じたり認めることによって、「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」という問題意識が明確になり、それらを自問する事ができるという効果にほかならない。このような、生きがい感の向上効果について、ジョエル・L・ホイットン博士はこう語る。

 「最も重要なのは、中間生を知ることによって、一人一人の責任が非常に大きくなることである。この世は、中間生で計画したことが試される場所だ、と認めるなら、毎日の生活は新たな意味と目的に満ちたものとなる。そして、たとえこの世の環境がどんなに困難であったとしても、短い人生を終えた時、人間は、愛の根源の美と雄大さのうちに包み込まれる。中間生こそが私たちの住むべき世界であり、地球という惑星は、魂の進化のために必要な試験場であるにすぎない。我々がここにいるのはなぜなのか、また何をしなければならないのか・・・・超意識の研究は、我々にそのことを理解させずにはおかない。」

 この言葉には、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを研究することの意義が、端的に示されている。全てのことには意味があり、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集であること、そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も敵対している人も、みな理由があって自分の成長のために存在してくれていることを知った時、我々の人生観は大きく揺さぶられる。それは、他のいかなる表面的なカウンセリング技法によっても成し遂げることのできない、まさに価値観の本質的な揺らぎと転換であると言えよう。

 子供を亡くした親や、親を亡くした子供は、わが子や親がこの世での勤めを無事に果たして帰還したこと、いずれはあの世で再会できること、そしてこの世においても、常に自分たちのそばで見守ってくれていることを知る。どうしても今すぐに会いたければ、前述したレイモンド・ムーディ博士の「精神の劇場」を訪問すると、生前の姿のままで言葉を交わすことができる。たとえアメリカにまで出向かなくても、「我慢できなくなったら精神の劇場へ行こう」と思うだけで、どれほど心の支えになることだろうか。

 事故で手足を失った若者や、障害を持って生まれてきた人々は、それが誰のせいでもなく、自分自身で計画した試練であり重要な理由があること、その試練に打ち勝てば大きなご褒美が用意されていること、また次回の人生では、再び完全な身体として生まれ変わることを知る。これらの情報を知らないうちは、自らを襲った悲劇は不幸以外の何物でもなく、ただ暗たんたる人生が待ち受けていたにすぎない。しかし、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを理解すると、全ての悲劇に貴重な意味が生まれ、単なる不幸が成長への機会と変貌し、多くの「魂」たちが常に激励してくれていることに勇気づけられるのである。その結果、「たまには、こんな人生を送ってみるのも悪くない。どうせなら大いに楽しんでやろうじゃないか」という意欲がわいてきたならば、それはまさに、「魂」たちからのメッセージであるに違いない。事実、数多くの退行催眠の事例をもとに、ブライアン・L・ワイス博士は次のような結論を出している。

 「重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは、進歩のしるしであり、退歩を意味しない。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主だ。最も大きな成長の機会が与えられるからである。もしも、普通の人生を学校での一年間だとすれば、このような大変な人生は、大学院での一年間に相当する。退行催眠をかけると、苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、そのためである。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持たないのである。」

 また、まもなく死を迎える時、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知っていれば、どれほど心安らぐことだろう。「死ぬ」ということは、ただ「肉体」という衣服を脱いで取り替えるだけにすぎないこと、次にどのような衣服を着るかは自分で選択できること、先立った懐かしい人々との再会が待っていること、この世に残す家族はやがて自分が迎えに来ればよいことを知っていれば、死の瞬間をどんなに大らかな気持ちで待つことができるだろうか。「さて、次はどんな人生を計画してみようかな」と、洋々たる未来を想像することができれば、死に際しても楽しい気分でいることができるに違いない。

 人間関係の悩みを抱えている場合にも、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知ることによって、新たな視点から関係を見直すことができる。親子や夫婦、親友や宿敵などの人間関係には全て深い意味があり、それらの人々は、過去何度もの人生を、深くかかわり合いながら共に修行してきた、いわば「戦友」なのである。現在反目し合っている宿敵でさえも、「今回の人生では敵同士に分かれて、互いに許し合うことに挑戦しよう」と約束して生まれてきたに違いない。研究者たちの報告は、この世で出会うあらゆる人々に対して、愛情と感謝を注ぐことの必要性を訴えている。とりわけ、両親に感謝することの大切さについて、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、このように語る。

 「死とは、ただこの世から、痛みも苦しみもない別の存在へと移るだけのことだ。つらい思いも、いさかいも全てなくなり、永遠にあるのは愛だけである。だからこそ、今、愛し合って欲しい。なぜなら、私たちは誰でも、自分に命を与えてくれた人たちと、あとどのくらいこの世で共に過ごすことができるのか、わからないからである。たとえ、どんなに不完全な親だったとしても・・・・」

 同様に、レイモンド・ムーディ博士は、臨死体験者に共通して現れる重要な心境変化について次のように強調する。

 「息を吹き返すと、すぐにほとんど全員が、『愛は人生で最も大切なものだ』と言うようになる。人間がこの世に生を受けるのは、愛のためだと言う者も多い。大半の者は、幸福と達成願望は愛の証明であり、愛に比べると他のものは色あせて見えるという。このことを悟ることにより、臨死体験者のほとんどが、根本的に価値観を変えてしまう。自分の信念に凝り固まっていたものが、人間はそれぞれ大切だと思うようになり、有形の財産こそあらゆるものの頂点にあると思っていたものが、同胞愛を重んずるようになるのである。」

 以上のように、我々は、「死後の生命」や「生まれ変わり」の知識を身につけることによって、自分自身の存在意義や人生の目的を問い直し、過去の人生や現在の状況がいかなるものであろうとも、そこには必ず重要な意味が込められていることを認識することができる。その知識は「生きがいの源泉」の役割を果たし、自分を取り巻くあらゆる事象や人物、生物たちに対する「愛の源泉」にもなることだろう。その過程では、多くの人々が、価値観の本質的な揺らぎと転換を経験するに違いない。このような効果を、特定宗教を信じない人々や、宗教を拒絶する人々にも与えることができる点が、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する科学的研究を広く紹介することの意義であると言えよう。

 もっとも、これらの研究成果を目にすることを嫌い、唯物論を「信じる」ことも、また自由であり、権利である。おそらく、これらの研究成果を目にして、知識として理解することはできても、「にわかには信じ難い」という人々も多いことだろう。とりわけ、自分の人生を、目前の利益だけを考えて自分勝手に生きたいと考える人、あるいはこれまでそのような人生を送ってきた人にとっては、本稿で紹介する知識は、「信じたくない、認めたくない情報」であるに違いない。それでも、何割かの人々は真剣に受けとめてくれるだろうし、私の経験では、このような情報を密かに待ち望んでいる人々も少なくない。さらに、「絶対に信じない」と強がっていた人々が、やがて研究者たちの真摯な言葉に胸を打たれ、「もしかしたら、あるのかも」と心を開いていった事例を、私は何度も目にしてきた。無理に特定の宗教に依存しなくても、個人的な信仰心を持つことは可能なのである。そして、そのような場合の信仰心とは、いわば「科学的知識に裏づけられた宇宙の法則」に対して向けられていると言えよう。

 その際に、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する宇宙の法則のことを、「神」と同意に位置付ける者もいるかもしれない。また、その法則において実在する「指導役の魂たち」あるいは「その中で最も偉大な魂」のことを、「神」と呼ぶ者もいることだろう。おそらく、そのような実存的な「神」を認識した者は、たとえ周囲に人間がいなくても、犯罪や不道徳を行うことはない。人間が見ていなくても「神様はいつもそばにいてくださり、私の言動を見ていらっしゃる」と、確かに実感することができるためである。このような人々が世の中に増えていけば、この物質世界で目先の欲望に囚われて無益な犯罪を犯す者は、必ず減少するはずである。

 いずれにしても、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果は、我々にとって、「生きがいの源泉」として役割を果たしてくれるに十分な衝撃性と説得力を持っている。退行催眠や臨死体験を経験した人々が、突然に価値観を大きく変え、物事に動じなくなったり、物欲や金銭欲を捨てたり、ボランティア活動を始めたり、他人に対して寛容になったりする姿は、その有効性を如実に示していると言えよう。自殺者に対する実証研究の結果としてグレイソン教授が述べたように、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究が重要なのは、あくまでも「死」との関連においてではなく、「生」との関連においてなのである。

 


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