2.死後生仮説の優位性
「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的真偽の議論とは別な次元において、これらを否定する論者に対する絶対的な優位性を持っている。これについては、通常あまり注目されてはいないが、本稿のように「知識を広めること自体が発揮する効果」を強調する場合には、不可欠な論点だろう。
私の専攻する経営学では、競合企業を打ち負かすために、いわゆる「接待優位の戦略」を立案することが望ましいとされる。絶対優位の戦略とは、事態がどのように進展しようとも、最後には自社が勝利を収めるようなシナリオを、シミュレーションによって描いたものであると理解すればよい。「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、少なくとも2つの観点において、否定論者に対する優位性を保持している。
(1)「死後の生命は存在しない」ことを「科学的に実証する」ことは不可能である
「死後の生命は存在する」という命題については、データを蓄積することや、管理された研究条件のもとで科学的に実証することが、方法論的に可能である。その反面、「死後の生命は存在しない」という命題の場合、当然ながら、そもそも存在しないもの自体を確認することは不可能である。そのため、否定論者は、肯定論者が「存在する」という証拠をひとつひとつ検証し、その全てについて「証拠として認められない」ことを公正な立場から確認する必要があり、全ての証拠が否定された段階で、ようやく「現在の所、死後の生命が存在するという証拠はないため、死後の生命は存在しないものと思われる」という科学的推論を導き出すしか方法がないのである。
しかし、死後生存の証拠が全て否定されたとしても、あくまでも「現在のところは」という条件付きであり、将来、決定的な証拠が見つかる可能性は十分にある。したがって、「死後の生命」というテーマについては、論理的に見て、「肯定できるだけの決定的証拠はないが否定する方法もない」か、「肯定できるだけの証拠が得られた」かという、2つの状態しかあり得ない。言い換えれば、肯定論者が「悪くても現状維持、おそらく明るい未来」という希望を持つことができるのに対して、否定論者には「ひたすら頑張っても現状維持、もしかすると敗北」という未来しかないのである。
(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知ることになるが、死後は無に帰してしまう場合、肯定論者の意識はなくなるため自分の誤りを知ることはない
「死後の生命」という命題の回答は、「死後にも意識があるか、ないか」の2通りしかない。したがって、次の理由から、死後にも何らかの形(例えば「魂」)として覚醒しており意識があると考え、そう主張しておく方が、論理的に見て絶対的に優位なのである。
具体的に考えてみよう。肯定論者の場合、実際に自分が死んだ後に意識があれば「やはり思っていたとおりだ」と満足することになるし、万が一、無に帰してしまい意識などなかったとしても、意識自体がないのだから「しまった、やはり死後には何もなかった」と知ってがっかりすることもない。しかも、かりに死後は何も残らなかったとしても、本人は最後まで死後の生命を信じて、希望を抱きながらこの世を去ることができる。
一方、否定論者の場合は、事態がどう進展しようとも、芳しくない結果となる。なぜなら、自分の主張の正しさが証明されたとしても、すでにその時には自分の意識もないのだから、死後に自分の勝利を味わうことは決してできない。しかし、万が一、死後にも自分の意識があった場合には、本稿で紹介したように、自分の誤りを知って衝撃を受けたり、唯物論的な生き方をした自分の人生に対して猛烈な反省を促されることだろう。もしかすると、先立っていた肯定論者の魂たちから、「そらみろ、やはり死後にも意識があったじゃないか」と糾弾されるかもしれない(魂の状態に戻ると極めて寛容になるので、実際には糾弾されたりはしないだろうが)。しかも、本人は、死後には無に帰してしまうだけだと思いながら死んでいくため、それまでの人生に充実感が乏しい場合には、後悔に満ちた、寂しく、希望のない死を迎えることになる。死は全ての終えんであり、喪失以外の何者でもないのである。
このように整理すると、肯定論者は事態がどう進展しても幸せ感を得ることができるのに対し、否定論者には、いずれにしても朗報はもたらされないことがわかる。
以上の2つの観点を見ると、戦略的に絶対優位の立場にいるのがどちらの論者であるかは明白である。「死後の生命」や「生まれ変わり」については、疑わしきは信じないよりも、例え疑わしくても信じていた方が、むしろ理性的なのである。しかも、これらについては、科学的に認めるか認めないかは別にして、個人的価値観として信じながら生活する方が、心理的に様々な利点を持つと考えられる。
そこで次に、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果を、情報として広く伝えることの意義について考察してみよう。