以上のような「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点からどのように評価することができ、また研究テーマとして、どれほど魅力あるものなのだろうか。本説では、これら2つの観点から検討を加えてみたい。
1.死後生仮説の科学的説得力
「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点から、どのように評価することができるのだろうか。超自然現象を批判的に究明する「ジャパン・スケプティクス」の副会長である立命館大学の安斎育郎教授は、次のように語る。
「死の淵に立った人が、『死後の世界』を信じて死のうが、信じないで死のうが、死の尊厳に変わりはありません。死後の世界を信じる、信じないは、個人の価値観の問題であって、科学が介入する余地はないでしょう。しかし、『死後の世界論』が『科学的体裁』で展開されるような場合には、科学の立場を明確にする必要が生じます。」
「もしさんざん調べた結果、やはり現代の科学とは矛盾する現象だということがわかったら、素晴らしいことです。その時こそ、科学が飛躍的に進歩するチャンスです。そんな時には遠慮なくいったん現代科学の体系を捨て、新たに見つかった事実もうまく説明できるように知識の体系をもう一度組み直せばいいでしょう。科学はこれまでもそのようにして進歩してきたのですから、いまさら変わった考え方をとる必要はないでしょう。」
「超心理学の最先端の論文を批判するには、心理学の先端的知識に裏打ちされた専門家集団による検討が必要であり、私のように、本来、放射線防護学や国際平和学を専門とする経験の浅い懐疑派が片手間に検討して済むような問題だとは思いません。」
安斎教授は、現在信じられている物理学の法則に反する仮説に対して、頭から「否定のための否定」はせず、あくまでも「懐疑派」の立場を強調しているが、これは科学者として賞賛すべき姿勢である。同様に、国際的に知られた生理学者である浜松医科大学も高田秋和教授は、臨死体験を既存の法則によって説明しようと努力した末に、先入観にとらわれない科学的態度を勇気を持って貫き、科学と宗教の今後の関係を次のように推測している。
「今までは、科学は、宗教の非科学的な面を解明し、追求する役割を担っていると考えられていたと思います。つまり、科学により、宗教は説得力を失ってきたといえるでしょう。臨死体験は、逆に、将来、宗教的真理に支持を与えるものとして注目を与えるように思えます。」
そこで、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する分野の専門家たちが、この問題の研究成果をどのように評価しているのかについて着目してみよう。まず、アリゾナ大学のロバート・カステンバウム教授は、臨床心理学者の立場から、これらの仮説の証明方法について、「第一に念頭に置くべきことは、きちんとした記録がひとつあれば十分だということである。本当は百も千も必要ではない。」と強調する。
例えば、50人の被験者に「空中に浮かんでください」と指示したところ、49人は失敗したが、1人だけは地上1メートルの所に浮かんだとする。この結果を見て、「50人中49人も失敗したのだから、人間が空中に浮かぶことができるとは言えない」とか、「1メートル浮いただけでは証拠として不十分だ。やはり人間は空中に浮かぶことはできないに違いない」などと結論づけようとするのが、現在の否定論者の論法だという。本来ならば逆に、「成功したのは50人中1人だし、わずか1メートル浮いたにすぎないが、確かに人間が空中に浮いている。少なくとも、人間は空中に浮くことができるのだ」と結論づけるのが科学的解釈であり、むしろ、「どうして空中に浮くことのできる人とできない人がいるのか」「浮くことのできる条件は何か」という命題にこそ、論点が移っていくべきだというのである。その上で、カステンバウム教授は、次のように指摘する。
「一部の反対派が、しっかりはしていても完全ではない証拠を認めたがらないのは、ただ『死後の生存を認める』のが嫌なのだということを物語っている。証拠を認めるのをためらうのと、反証するのとでは大違いである。我々がこれまでに見てきた、死後の生存を裏づける証拠の大部分には、死後の生存を否定するものは何もない。ただ一部の人が、証拠に限界や欠陥があるかもしれないと思う限り、死後の生存を認めたがらないだけのことである。もしも、これと同じ考え方で科学一般のデータが扱われたとしたら、教科書は今よりもずっと薄くなることだろう。」
同様に、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、いくら科学的な証拠を示しても認めたがらない否定論者たちに対して、皮肉たっぷりにこう述べる。
「私が何を申し上げたいのか、お分かりですか。ある事実に納得がいかないと、人はそれを否定する何千もの反論を持ち出してくるのです。再度言いますが、これはその人自身の問題であり、そのような人を無理矢理に説得しようとしてはなりません。いずれにしても、死ねばわかることなのです。」
彼女が述べるように、「否定のための否定」に終始して心を開かない論者たちを説得するという益の少ない行為よりも、人生に絶望している人や死の恐怖に震える人に対してこれらの知識をきちんと伝えることの方が、はるかに優先すべき課題なのである。
さらに、ブライアン・L・ワイス博士は、科学の進歩の歴史を例にあげながら、次のように指摘する。
「歴史を振り返ってみても、人々は変化や新しい考え方に対して、いつも大きな抵抗を示してきた。そのような例は枚挙にいとまがない。ガリレオが木星の月を発見したとき、当時の天文学者たちはそれを受け入れようとしないばかりか、衛星を目で見て確かめようともしなかった。木星の月の存在は、自分たちが信じている仮説と矛盾していたからだ。現在もそれと同じことが起こっている。精神科医やセラピストたちは、肉体が死んでも魂は生き続けるということや、過去生の記憶などについて数多くの証拠を調査することはおろか、評価することさえも否定している。彼らはしっかりと目を閉じているのだ。」
数多くの証拠を評価することさえも否定し、しっかりと目を閉じているの研究者は、精神科医やセラピストばかりでなく、物理学者にも多いと思われる。物理学という学問の性質上、「現在わかっている普遍的な法則に合致しない」という理由で見ぬふりをしているか、頭から否定しようとして読むために、いかなる証拠も「不十分」と決めつけるかのいずれかであろう。しかし、高エネルギー物理学の世界的権威でありNASAの主任研究員勤めた神奈川大学の桜井邦明教授は、著書『宇宙には意志がある』において、「人生は一度きりである」と物理学的に解釈しながらも、一方では次のように明言している。
「そもそも、科学的法則や理論というのは、私たちが経験した現象に対する、一種の解釈にしかすぎない。現在の宇宙論にしたところで、これまでの観測結果を合理的に説明しようとして作り上げた解釈の一つであって、これが唯一無二の真実であるとは言い切れないのである。インフレーションではじまるビッグバン宇宙論が、今後、永久に変わることのない正しい説明なのだと断言できる研究者は、たぶん1人もいないだろう。」
しかも、本稿で整理した「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果は、現在最も合理的だと考えられている物理学の普遍的法則や、生物学の進化論などを、真っ向から否定するものではない。むしろ、これらの分野の研究者が先入観抜きで客観的に検討すれば、現在の物理学や生物学、遺伝学の法則では理解しにくい現象が説明されたり、それらの法則に新たな視点や切り口を与えてくれることだろう。それは、理学系以外の学問分野においても同様であり、例えばジョージア大学哲学科教授のロバート・アルメダー博士は、近年の具体的事例を幅広く分析したうえで、次のように結論づけている。
「この2,30年の間、生まれ変わり、霊姿、憑依、体脱体験、死者からの通信といったものに関する証言が、科学的な方法を用いて検討されるようになった。こうした研究の成果は、哲学者の立場から見て印象的なものであり、私見によれば、死後にも何らかの形で存在を続けるとする考え方を裏づける強力な証拠となっている。死後の生命という考え方は、最強の懐疑論の猛襲にも耐えられる、というのが私の結論である。死後には何も残らないと考えるよりは、何らかの形の生命が存在すると考える方が、理にかなっているのである。」
わが国でも、心理学者である愛媛大学教養学部の中村雅彦助教授は、臨死体験を正面から取り上げた著書において、公正な立場から次のように強調している。
「生まれ変わりを信じる、信じないは、個人の思想、信条の自由である。しかし、科学の世界では、生まれ変わりが本当にあるのか、ないのか、その真実性を問題にする。そのためには、たくさんのデータを集めてこなければならない。私は、何らかの結論が出るほどのデータが集まるまでは、その可能性を否定しないと言う姿勢を保ちたい。」
しかも、中村助教授は、既存研究を客観的に分析したうえで、「生まれ変わりがあり得る」との判断を示し、勇気を持って次のように告白している。
「最初は、トリックやでっちあげを暴いてやろうと思って文献購読を始めたのだが、読めば読むほど厳密な研究の姿勢に感心して、同時に人の心の時空を越えた広がりを実証するのは、こんなにも難しいものかと驚きもした。気がついてみたら、ミイラ取りがミイラになってしまっていたのである。」
このような、当初は否定しようとして始めたにもかかわらず、結局は肯定せざるを得ない結果に終わってしまい、科学者として謙虚な姿勢を余儀なくされたという経緯を、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する多くの研究者が記していることは興味深い。彼らにとって、「死後の生命」や「生まれ変わり」を認めることは、決して研究者として得策ではなく、とりわけ研究の萌芽期には(日本では未だにこの期を脱していないが)、むしろ学会から白眼視される危険性が極めて高かったのである。彼らの研究成果を先入観抜きで検討するならば、「否定のための否定」しか頭にない非科学的姿勢の研究者を除いて、公正な懐疑論者を、「主観的には信じたくないが、客観的には認めざるを得ない」という複雑な心境へといざなうに充分な説得力を持っていることがわかる。
しかし、本稿は、否定論者の説得を目的とするものではない。ここでは、各国の真面目な研究者たちが損得を抜きにして「認めざるを得ない」と告白する言葉の数々が、時に感動的ですらあるほど、勇気と使命感に満ちていることをのみ指摘しておきたい。